反弾圧、そして自由を!
あわただしい日々が続いているが、気がつけばもう11月だ。11月ともなれば、反天連的には、そろそろ年末恒例の12・23集会を呼びかけなければならない時期である。もちろん、私たちは今年も集会準備を開始している。今年のテーマとしては当然、3・11以降の事態がこの社会に浮上させたさまざまな問題と天皇制との関わりとを問う内容になるだろう。だが、いまの時点では、残念ながらきちんと集会のご案内をすることができない。会場が最終的に決まっていないからである。
以前このニュースでも書いた(2011年3月号)ように、私たちが公共施設を使って集会を持つことは、いまや至難の業だ。理由ははっきりしている。右翼である。
前書いたことの繰り返しになるのでこれ以上の展開は避けるが、いまもめているS区民会館は、ネットなどを通じた不特定多数の人びとへのよびかけを、会館使用規則をタテにして禁止し、利用にあたっては会館施設管理者の指示に従うことなどを要求している。それが「規則です」との一点張りで。
こうした行為は、右翼に確信を与えるに違いない。「やれば必ず勝てる」と。集会・表現の自由などすでにただのお題目である。「公共」ということは、ただ、社会の「一般市民」に対して「ご迷惑をおかけしない」ことでしかなく、多様な意見、少数派の意思表示を保証することではまったくないのだ。右翼だって多数派ではないはずだが、右翼に襲撃されるような存在もまとめて、自分たちの目の届かないところに排除したいというのが本音だろう。こうした風潮を少しでも変えていくこと、それはやはり社会的な運動を措いてほかにない。
というのは、このような事態は、私たちだけが被っているわけではけっしてあり得ないからである。この間のさまざまなデモにおける、参加者の相次ぐ不当逮捕も、このような社会の空気が広く浸透しているからこそ可能になっているはずである。多くのデモや街頭行動が、つねに警察による過剰な統制のもとにおかれているが、そういう社会の息苦しさに対して、明確に拒否の意志を示していくさまざまな運動が、すでに多様に展開されているのだ。というよりも、原発推進に象徴される戦後社会秩序にそのまま「回帰」するのか、それとも別のありかたへの端緒をつかむのかということをめぐる闘争が、このような現場においても不可避的にせめぎ合っているというべきだろう。
しかし、権力は卑劣である。10月25日、私たちは、私たちの友人である「学校事務労働組合神奈川」(がくろう神奈川)の4人の組合員を、令状逮捕で奪い去られてしまった。組合員の「人事評価」をめぐる2年半前の団体交渉(双方合意の上で設定された)が、「強要未遂」とされたのである。逮捕の翌日には早々と勾留請求・決定がなされたが、今月2日の勾留理由開示公判当日に、4人全員が釈放された。
がくろう神奈川は、労働組合の原点に立ち、原則的な活動を持続してきた少数派組合であり、また、地域共闘や「日の丸・君が代」問題、反戦・平和、反天皇制、日雇労働者支援、反グローバリズムなどの課題にも積極的に関わってきた部分である。あからさまな、しかしまったく杜撰な冤罪(弁護士の言)であった今回の弾圧が、組合運動にたいするそれであると同時に、こうした運動への弾圧であることも明白だ。当面は、不起訴を勝ち取っていくとともに、今回の弾圧の意味を、われわれもまた、被弾圧当該とともに考えていかなければならないだろう。
こうした一連の事態こそが、まさしく「デモと広場の自由」の問題である。そしてそれは、3・11以降の社会的な流動化において激化しているはずである。1日深夜、玄海原発は運転再開されてしまったが、原発再稼働阻止を掲げた経産省前の行動は、9・11経産省「人間の鎖」包囲行動以来、正門脇に張られたテントを拠点として持続されている。1か月以上続いている24時間態勢の座り込みは、さらにもう1つのテントを増設し、「テント広場」をつくりだした。10月末に「福島の女たち」の座り込みが行われ、それを引き継ぐかたちで、11月5日まで「全国の女たち」の座り込みも行われている。11日には、反天連も参加している「福島原発事故緊急会議」も実行委員会に関わっている「11・11─12・11再稼働反対!全国アクション」によって、「たそがれの経産省キャンドル包囲『人間の鎖』アクション」(午後6時~7時半/経産省本館正門前集合)が呼びかけられている。
私たちもまた、これらのうねりに加わりながら、自らの自由をこの手に取り戻していきたい。
(北野誉)