反天連第8期のスタート(2009年12月)は「政権交代」の時期に重なった。それをふまえ、私たちは次のような呼びかけ文を発した。
「……第8期への呼びかけを発しようとしている今、状況は激変している。その極右むき出しの安倍政権は、中国・韓国などのアジア諸国との関係はもちろん、自分たちの親分であるアメリカとの関係までブチこわしにする侵略・植民地支配自己正当化のイデオロギーをふりまわして、短期に自滅した。その後福田そして麻生と自民党短命政権は続いたが、ついに選挙で民主党が大勝ちして鳩山政権が成立するという局面が、今、うまれているのだ。これは大きな変化である」。
もちろん、この時においても私たちは、右翼自民党の敗北と「リベラル」民主党の勝利に期待する文脈で、そのように書いていたわけではない。
「権力政党自民党が権力からころがり落ちることで、右翼は『上』と直結するスタイルから、横に大衆化する方向へ転換しだしている。これが未来に何をもたらすのか、私たちは『右翼の時代』が終わったのではなく、その時代が新しい段階(局面)をむかえつつあるのだという状態の本質を、しっかり見すえて、運動をスタートさせたいと考えている」。
まさに民主党政権の時代に、私たちの参加する反天皇制運動のデモが、右翼に攻撃される事態は日常化し、この「横に大衆化する」右翼との対決は、反天皇制運動のみならず、多くの社会運動がつねに強いられる現実になってしまった。それでも、この時点で私たちは、民主党による象徴天皇制の「リベラル」な利用が進むだろうと考え、その点に危機意識を向けていたことは確かである。
「もちろん『リベラル』民主党は、象徴天皇制を強化しフル活用しようという政党である。右翼との対立という側面(それは今後さらに激化していくことはまちがいあるまいが)にのみ注目し、その事を見落とすわけにはいかない。右翼と切れる(あるいは党内の右翼を押さえ込む)ことで民主党は、象徴天皇の政治活用のフリーハンドを手にしようとしているのである。ソフト・イメージの〈アキヒト─ミチコ〉天皇制は、その意味では民主党政権の方にマッチしている。こちらの方こそ、私たち反天皇制運動の正面の敵ともいえよう」。
つまりは、象徴天皇制は「二つの対立的な政治意思に同時に担がれている」が、その「二重構造は近代天皇制国家を貫徹している支配の様式」でもあるのだから、原則的な天皇制批判の継続こそ、この「敵の分裂的状況」において必要であると論じていたのだ。
実際、民主党政権初期、鳩山の時代には、普天間基地問題をはじめとして、自民党時代の「対米従属」路線から一定の距離をとり、対アジア外交を重視しようとする志向が見えた。しかし、それは官僚、自民党や主流マスコミも含めた「日米同盟こそ基軸」という声に押しつぶされ、挫折を余儀なくされた。それとともに、一定存在していた「リベラル」色を大きく後退させ、中道右派から新自由主義・保守路線への道を歩んでいくことになった。こうして民主党政権は「有権者」の一定の期待も失い自滅していったが、他方で下野した自民党は、民主党との対決色を鮮明にする中で右翼色を強め、それが安倍極右政権の再登場を押し上げた。議会内においても、「革新」や「リベラル」勢力が凋落し、右から安倍を突き上げる日本維新の会が躍進した。すなわち、政権交代から三年たって安倍政権が再登場することとなったが、それは単なる回帰ではないのだ。
安倍政権は、昨年末の選挙公約において「天皇元首化」などを掲げる「改憲」を明記した。そして、日本の伝統や「強い国」を強調して、教育などを通して国家主義的・天皇主義的な歴史認識を浸透させようとしている。「日米同盟強化」のために、沖縄への基地押しつけをさらに強化し、「集団的自衛権」行使の容認へ踏み出そうとしている。「領土問題」などで中韓への強硬な姿勢をとり、「村山談話」は踏襲すると言いつつ、新たな「談話」を出したいとする。さらに、事故を起した原発からはいまだに膨大な放射性物質が垂れ流され、多くの地元被災者が「棄民化」されつつあるのに、原発の再稼働に突き進もうとしている。また、しきりに「復興」をいうが、それも当事者住民を無視した、ゼネコンを潤すだけの政策でしかない。そして、右翼も利用しながら、信じがたい理由をつけて、さまざまな運動への弾圧を強めている。
これらのすべては、三年前の想像を超えている。こうした状況の中で、第九期を開始しようとしている私たちの課題は、したがって、この親米極右の安倍改憲政権との正面からの対決を掲げるものとならざるをえないだろう。安倍極右政権の登場で、「右」の顔を正面に向けた政治のサイクルが再び強まることは疑いがない。しかし、それがそのまま、右翼的・神権主義的な天皇制の強化に繋がると考えるべきではない。国家の機構でありながら、それとは独立して超然と存在しているかのようにふるまう象徴天皇制は、そのふるまいにおいて、文化的・平和的な場面における民衆統合の装置であり続けるだろう。この意味において、政治的な天皇制の二重構造は、依然として存続し続けているのだ。それゆえに私たちは、運動の中においてさえ繰り返し登場する「リベラルな天皇への期待」なるものをも批判していかなければならない。そしてそれは、多くは8・15、さらには3・11などに象徴される「追悼の政治」の場面において発動される天皇制の批判ともなるだろう。
しかし私たちの運動力量は圧倒的に不足している。私たちの運動が、私たちの活動に協力して下さる多くの方に支えられることはもちろんだが、さらに、さまざまな運動との相互の協力関係を広げていくことなしに、それを進めていくことは不可能である。このこともまた、九期の課題である。
一人でも多くの方の参加、協力、支援をお願いします。
(反天連事務局)