2016/03/12

カーニバル36号 [主張]

 責任の所在を明確に! あきらめずに抗議の声を挙げ続けるぞ!

  二〇〇七年に、要介護4の認定を受けていた九一歳の認知症の男性が、徘徊中に線路内に入り電車にはねられて死亡した。介護をしていた要介護1の八五歳の妻が一瞬まどろんだ隙の出来事だったという。なんとも悲しい事故ではないか。けれどもJR東海がこの妻と息子に対して損害賠償を請求した。国家や大企業が弱者を踏みつけてきたことは、歴史の中で明らかなことであるが、寒々しい気持とともにこの裁判の行方が気になっていた。
 三月一日に最高裁は、JR東海の賠償請求を棄却して、家族が賠償責任を負わないとする良識的な判断を下した。
 この判決の前日の二月二九日に、福島原発事故において、東京電力の旧経営陣だった勝俣恒久元会長、武藤栄元副社長、武黒一郎元副社長が業務上過失致死罪で在宅のまま東京地検に強制起訴された。これほど甚大な被害をもたらした事故をおこしておきながら、誰も責任を問われなかったが、原発事故の刑事責任が裁判で問われることになった。事故の責任追及を求めてきた「福島原発告訴団」の武藤類子団長は「原発事故は収束していないし、被災者はまだ困難な状況にある。責任をうやむやにしてはいけない。反省しなければ、また事故が起きる」そして「裁判を通じ、原発政策の問題点も明らかになれば」とコメントしている。JR東海の最高裁判決と東電旧幹部の強制起訴は、どちらもあきらめずに闘った結果の勝利である。巨大な力に対抗し、様々な方法を模索し、あきらめずに粘り強く闘うことの必要性が改めてしめされたと思う。
 そして国家や大企業が負わなければならない責任を、個人の責任に転嫁し、それが当然のように操作されている現在の状況に抗議の声をあげなければと、私たちは励まされる。
 小泉政権下、新自由主義の名のもとに、「自己責任」が声高に叫ばれた。弱肉強食を良しとし福祉政策がカットされた。それを安倍政権が引き継ぎ、ますます露骨に弱者切り捨て政策を強行している。
 福島県では居住制限区域と避難指示解除準備区域の避難指示を一七年三月末までに解除。両区域の住民への月一〇万円の精神的損害賠償(慰謝料)の支払いを一八年三月末で一律終了。自主避難者に対する住宅無償提供の打ち切り等。高線量地域に強制帰還させようとしているとしか思えない政策を強行しようとしている。
 天皇夫婦が、復興視察に、福島と宮城県を訪れるというが、彼らの慰めで現状は変わらない。謝罪と補償がなされるべきである。
 福島の教訓は生かされず、安倍政権は「事故は起きるがもう安心だ」という神話を振りまき、川内原発、高浜原発と次々に原発を再稼働させている。原発は絶対に再稼働をさせてはいけない。それなのに、住民の避難計画は立てず、免震棟もつくらず、老朽化など様々な問題を残したまま、再稼働を急ぐ姿勢は信じ難いことである。目先の利益に目がくらみ、命をないがしろにすることに、抗議の声を挙げることは当然のことである。
 責任者が責任を取らないという一貫した無責任国家体制は安倍政権の原発再稼働を許している。ドイツも様々な問題があろう。けれども、福島原発事故後いち早く、脱原発に舵をきったこと(フランスから電力を買っているが)を思うと、やはり過去の戦争で犯した罪との向き合い方が違うのではと思うのだ。
 歴史認識歪曲の先頭をいく安倍は参院選で「改憲」をはっきりと明言している。池田浩士さんが、三〇年代ドイツと現代日本との類似を指摘されている。そして憲法一二条の「憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」という一文を重んじて、「趣旨とは、単に護憲を言い続けることではない。憲法に反した現実を覆すべく、市民が相互批判を交わしつつ、政治参加していくことではないか」(東京新聞)と述べていることは示唆的だ。
 最後にこの原稿を書いている最中に、「辺野古工事中断 再協議」のニュース。安倍政権が参院選の対策のために、民意に押され、政権内で想定されていなかった譲歩を迫られる結果になったという。これこそ、沖縄の人々の粘り強い闘いの勝利ではないか。ともかくも工事の中断は本当に凄いことだと思う。安倍の「和解」を通した新基地づくりへの引きずりこみ政策と闘う沖縄の運動に連帯していこう。
 反天連も粘り強く、諦めずに民意に響く言葉を模索する努力をしようと思う。天皇制は差別を前提とする制度なのだから。きっと届く!         (鰐沢桃子)