2013/11/13

カーニバル8号[主張]


天皇制をめぐる「悪の凡庸さ」を問い続ける!


 新聞を開く度に、気が滅入る記事ばかりが目につく毎日である。一一月の三連休の初日に、神保町にある岩波ホールに映画『ハンナ・アーレント』を観に行った。ナチス親衛隊で六百万人のユダヤ人を強制収容所に移送した責任者アドルフ・アイヒマン。この裁判のレポートが『ザ・ニューヨーカー』誌に掲載され大論争になった。執筆者である『全体主義の起源』の著者ドイツ系ユダヤ人ハンナ・アーレントの物語だ。映画についてはきっと、いろんな方々が様々な媒体で紹介されると思うので省略する。この映画館に頻繁に足を運ぶわけではないのだが、それでもたま〜に行く。その度に空席が目立った。それが今回、信じられない観客動員数なのだ。一時間半前でチケットは完売。ゲットした最終回も満席状態。ここでも年齢層は高い。しかし、大学生らしきグループの姿もいくつか。これも極右安倍政権の影響なのだろうか。嘘で塗り固められた言説が大手をふっている日常に、嫌気が差している人々が少なからずいると思いたい。「思考することを放棄するな」と説くこの作品に予想外の長蛇の列。まだ捨てたものじゃないかもとちょっと嬉しかった。

 一一月七日、NSC(国家安全保障会議)法案は衆院委で可決され、特定秘密保護法案も、国民の「知る権利」を制限する内容のまま衆院本会議での審議に入った。極右安倍首相がめざす『積極的平和主義」とは、米軍との協力強化である。今後、武器輸出三原則を見直し、さらに集団的自衛権の行使を認めるための憲法解釈へと進み、最終的に安倍の悲願である九条に国防軍を明記する壊憲へと目論んでいるのであろうが、絶対に私たちはそれをさせてはならない。

 敗戦による米軍の占領に始まる「戦後民主主義」だが、一条から八条が天皇条項で始まるこの国の戦後は、植民地支配や戦争の責任と対峙することなく、天皇を免責することで「日本人」一人一人もまたこの悲劇の元凶ときちんと向き合うことを放棄してきた。そのことは象徴天皇制と民主主義というまったく相容れないものの矛盾を問うことなく、六八年という時間の中で奇妙な倒錯を作り出してしまった。

 戦争の負債を引き摺り続けたヒロヒト。その天皇の地位を継承したアキヒトは、ミチコとともに「リベラルで民主主義者である天皇・皇后」というイメージをしっかり浸透させた。一〇月二七日、天皇夫婦は「全国豊かな海づくり大会」に出席のため水俣を訪問した。石牟礼道子さんは「胎児性水俣病患者に会ってください」とミチコに訴えたという。そしてミチコについて「知性と愛情にあふれた方。あらためて尊敬します」と感想を述べたという。この報道は「なぜ? 石牟礼さんまで」という思いと悲しいダメージを私に残した。「リベラルや左翼」(適切な言葉が思い当たらなくてこう表現する)と呼ばれてきた人々がその権威にすがり付き、天皇制の強化に引きずり込まれていくことの意味を私たちは問う。政府の理不尽さを天皇夫婦に訴えることの「滑稽さ」を笑えるまっとうな社会はどんどん遠ざかる風潮だが、めげずにふんばろう(園遊会での山本太郎の問題点は「反天連からの手紙」を参照)。

 安倍政権は天皇の元首化にも意欲を燃やしている。戦争の匂いがプンプンする。人権など無視の「アホな安倍に利用されてなるものか」という危惧があるのだろう。ミチコは七十九歳の誕生日の宮内記者会で印象に残った出来事や感想を聞かれ、「五日市憲法草案」に触れている。「基本的人権の尊重や言論の自由などが書かれており、近代の黎明期に生きた人々の政治参加への強い意欲や自国の未来にかけた熱い願いに深い感銘を覚えました」と答えている。あくまで天皇制を前提とした草案ではあるが、基本的人権に重きを置いたと評価されるこの憲法草案を、このタイミングで触れるミチコの安倍への牽制の仕方、民衆への民主主義者というアピールは、実に政治的に長けていると思う。けれども私たちは、この言葉を極右政権と対比させて、喜ぶことなどできない。「皇后」としてのこの感想は欺瞞に満ちたものである。この醜悪を嗅ぎ分けるには、思考することをやめず、「天皇制」を問いつづけていくことが必要であると思う。


(アーレントが、「“思考の嵐”がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう」といっているのだ。映画の余韻が残っている、鰐沢桃子)