2014/03/13

カーニバル12号[主張]

天皇制社会の「常識」を変えていこう!

 昨年12月の安倍靖国参拝が引き起こした政治的混乱は、私たちの予想どおり、あるいはそれ以上に尾を引いている。年を越して報道される靖国参拝をめぐる政府内外の動きは無視できるほど小さくはなく、そればかりか、安倍側近による靖国参拝をめぐる発言のひどさで事態は更に大きくぐらつき、おさまりようもなく続いているのだ。しかしそれは、メディアが騒ぐことによってのみ問題化されている、というのが恐ろしい現実であろう。報道が途切れればこの問題もそれで終わりだ。まさかそれで問題が解決するわけもないが、多くの人にとって、この社会にとって、靖国問題はなんということもない、関心の対象外でしかないのだ。関心があるのは積極的支持派か少数の反対派だけ。そのことこそが、現在の「靖国問題」をつくりだしているし、今後の運動の課題でもあると、あらためて考えるのだった。


 1月も終わる頃に報道された安倍靖国参拝までの自民党も含めたいくつかの動きは、この靖国参拝が作り出す、私たちが抱く危機感とは無関係の、政府にとってのヤバイ事態を予想させるものであった。たとえば、「冷え込んだ」日中韓関係を「立て直す」ために奔走していた外務省は、昨年10月、「参拝すれば、日本外交の底が抜ける」と危ぶんでいた。そして、安倍の靖国参拝前日まで日中韓首脳会談実現に向けて協議を重ねていたという。一方、同じく10月の秋の例大祭後、山谷えり子参院議員など安倍の支持層が、安倍の靖国参拝を強く求めていた。また、同じく10月、2+2で来日したジョン・ケリー米国務長官とチャック・ヘーゲル米国防長官はわざわざ「靖国」ではなく千鳥ヶ淵を訪問し献花した。言外に「靖国」を否定してみせたのだ。そういった全体状況から判断する参拝への慎重論は、自民党内部や側近の一部からも出ていた。


 これらいくつかの視点・スタンスから出ている牽制や助言には、政治判断すべきことが多々あったはずだし、それを経て安倍は靖国参拝を選択した。それでいける、と考えたのだ。そしてそのことで少なくとも日本の大衆社会が動揺しているようには見えない。それどころか、安倍の支持率は50%以上をキープしている。国内的な反応としては、安倍の読みは間違っていなかったということになる。恐ろしいことである。その結果、安倍側は更に増長している。


 安倍靖国参拝に対する米政府の「失望」発言=批判。それに対する2月16日の、安倍側近による、「米国が『失望』と言ったことには我々の方が失望だ」からはじまる、米政府への高慢な対応。エスカレートを極める安倍グループによる暴言の数々。安倍たちのあまりのひどさに、体制内からも批判は出てくる。メディアが流す安倍批判は、こちらの言い分とはかけ離れてはいるが、体制側なりの説得力もある。対米国、対韓国・中国、どうするんだ、という恐ろしく現実的な政治の話なのだ。


 もちろん私たちは、仮に新たな打つ手が皆無になろうと、その土俵に立つことはない。むしろ、「靖国問題」を外交問題というメディアの「常識」から、歴史認識の問題、戦争と平和、民主主義に関わる問題として、再度立て直していくしかないとの確信を強めている。それは決していまに始まった課題ではないが、それも含め、これまでの反「靖国」運動の検証であり、現在的な8・15的状況も念頭に入れた立て直しでもある。今年も2・11反「紀元節」行動を皮切りに、議論はすでにスタートしている。また、東京・関西で「安倍靖国参拝違憲訴訟」がそれぞれ準備されており、反天連も微力ながら協力したい(同封資料参照)。多くの方が原告あるいは支援者としてこの靖国問題を社会化し、異を唱えていく行動に合流されることを訴えたい。


 ほか、気になる問題は横並びにあるが、NHK問題、歴史認識問題、辺野古新基地問題、戦争法、治安維持・弾圧法、差別排外主義的な動き(『アンネの日記』損壊事件も!)等々、気になりつつも割愛するしかない。


 そして、こういったひどい時代であればこそ、天皇一家のいかにも超然としていられる存在が大きく社会に入り込んでくる。2月23日の皇太子誕生日を前に、例年どおり皇太子は記者会見し、天皇同様の「護憲」発言や、故マンデラ元南アフリカ大統領の言葉を引用して「民主主義や人権の尊重など普遍的な価値」について述べた。他人の人権と民主主義を抑圧する中でしか存在し得ない天皇一族が述べることではないが、安倍との対比でありがたいものとして流布し、受け入れられていく。天皇制と民主主義や人権尊重に矛盾を感じないこの国の「常識」を変えていくことが、反天皇制の闘いでもある。今年も頑張るぞ。
 (桜井大子)