2016/09/04

【反天連からのよびかけ】02 違憲の『天皇メッセージ』が民主主義を押しつぶす ――この異様な状況に批判の声を上げていこう


【反天連からのよびかけ】02   2016年8月28日

違憲の『天皇メッセージ』が民主主義を押しつぶす
――この異様な状況に批判の声を上げていこう


 「生前退位」意向表明が政府や宮内庁を飛び越えたメディアへの「リーク」という形式でなされ、天皇の「Xデー」状況は開始された。そしてまた、メディアに事前に予告され、8月8日には、あたかも昭和天皇が「終戦詔書」を読み上げた「玉音放送」さながらの演出で、「天皇メッセージ」がビデオ放映された。

●違憲行為の当事者たちの責任を明らかにさせよ

 天皇が、憲法をはじめとする法制度や国家の政治に関与することは、憲法に明確に違反しており、決して許されてはならない。現在の憲法における「天皇の地位」や権能の制限は、何よりも大日本帝国憲法下において、天皇の権力が、内閣による「輔弼」という形式をとりつつ、政治への統治権としても、また軍に対する統帥権としても、実質的に行使され続け、「戦争の惨禍」を起こしてきたことを否定し、「国民主権」のもとに位置づけるためのものである。
 それにもかかわらず、今回の「天皇メッセージ」は、発言の中で「摂政を置くこと」や「代行」による対応などを拒否し、同時に、直接の表現を避けつつ、憲法や皇室典範に規定のない「生前退位」を強く望んでいることを明らかにした。天皇がその機能を果たせない状態のときに向けて、あらかじめ準備されている制度の適用を拒否し、皇室典範などの関連法規の改定によってしかなし得ない内容を、明確に要求したのである。これらは憲法上の規定の否定であり、国政に関する権能の行使であり、はっきりとした違憲行為である。
 天皇は、憲法上の「国事に関する行為のみ」を行なうとされ、その国事行為のすべてについて「内閣の助言と承認を必要とする」と定められている。天皇の違憲行為を認めることが、誰によりどのような経過でなされたものなのか。私たちはまずそれを明らかにさせねばならない。そして、これに関与した政府や官僚、宮内庁関係者や、皇族たち自身の責任をも明らかにさせねばならない。

●違憲性を覆いつつ演出された「天皇メッセージ」

 天皇の地位に関することは、まったく天皇や皇族たちの私事ではありえない。天皇の行為は、憲法上、国家の機関による行為としてあるのだ。ところが、メディアのすべて、さらに大多数の「有識者」たちが、この「天皇メッセージ」の違憲行為を見ぬふりをしてむしろ賛美し、「国政に影響を及ぼすものではない」とする政府首脳の発言をも追認している。
 明仁天皇によるメッセージは、憲法にかかわる多くの重要な問題の変更が、個人的な決断によって可能となるかのような前提に立っている。外形的には穏やかな「語りかけ」のスタイルをとりながら、実現されようとするものは、まさに天皇自身による天皇制の大幅な転換なのだ。このメッセージを引き金として、関連する法律の改定や立法の準備がすでに開始されている。これはきわめて異様な事態である。日本国憲法の改定を求める発言すら、メディアには流通しはじめている。
 しかし、かつても天皇制の政治権力は、このように天皇の意思を「忖度」する形で行使されてきたのであり、その構造は、「護憲」を義務づけられている天皇や政府権力によって現在も維持されていることが明らかになった。
 このような状況下で、天皇が「退位」を要望したり、天皇に「退位」を要求したりすることが、政治的にきわめて重大な事態を引き起こすこともまた、逆説的にはっきりしたと言わねばならない。私たちはこうした天皇制の構造と政治権力のあり方を、民主主義の立場からも、立憲主義の原則からも、強く批判する。

●天皇が要求する「象徴の立場への理解」

 今回の「天皇メッセージ」の重要な問題点として、さらに挙げられなければならないのは、天皇の行為として、憲法上の「国事行為」のほかに、憲法上の規定のない「象徴としての行為」というものを強調していることである。
 明仁天皇は、憲法第7条に定められた10項の「国事行為」に含まれない、それ以外の多数の行為を、「天皇の象徴的行為」とした。メッセージとして語られた、「国民の安寧と幸せを祈ること」「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅」などのいずれをもがこれに加えられ、「国民を思い、国民のために祈るという務め」であるとしているのだ。
 しかし、天皇による公的な場における「祈り」は、強く政治的な意味を持つ行為であり、個人的な行為としてはあり得ないものである。かつて神道は個別の宗教としての存在ではなく、「国体の本義」などにみられるように、「国体」そのものとして強要され、戦争体制を支えるイデオロギーとして機能してきた。憲法第20条の信教の自由や政教分離の原則は、これを否定するためにこそ設けられたものである。天皇が「国民のために祈る」ことを、「象徴的行為」としてあらためて認めさせようとすることには、たんに現状を追認するにとどまらない重大な問題がある。
 これまで、天皇や皇族たちは、侵略戦争の責任についてあいまいにし、「慰霊・追悼」の儀式を進めてきた。国内での災害があればいち早く被災地訪問を行ない、追悼や慰撫を重ねてきた。また、国体や植樹祭、海づくり大会などをはじめとするイベントのたびに、メッセージを発し、各地を訪れてきた。
 これらは憲法上に規定のないまま実施されているという点で、違憲でありながらも、内閣の助言と承認に基づく「公的行為」とみなされて追認されてきた。しかし、今回の「象徴としての行為」の強調は、こうしたいわゆる「公的行為」論からも逸脱しており、天皇のあらゆる行為を「象徴的行為」として正規に認知させようとする意図をも露わにするものだ。

●天皇制の「伝統の継承」などいらない

 メッセージにおいては、天皇らが「伝統の継承者」であり、「日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくか」とする。こうした発言からは、その「役割」を担ってきたという自負とともに、これを維持し拡大するという強い意志が受け取られる。
 それにもかかわらず、ここで語られた「伝統」の内実は、まったく不明のままだ。それを明らかにせぬまま、天皇の「象徴的行為」の一部であるかのごとく拡大するならば、天皇に関するあらゆることが、多くの捏造も含めて「伝統」として強要されたかつての歴史を、そのまま再現していくことになりかねない。
 昭和天皇裕仁の病気の顕在化と、その死に際して、「自粛」の強制が広く社会を覆った。このことへの、明仁天皇自身による否定的総括が鮮明にされたことは注目される。しかし、裕仁の死後に進められたのは、現行憲法下において根拠を持たない皇室儀礼が、あたかも欠くことのできない「伝統」であり、さらに国家儀礼であるかのごとく認められ、政教分離が掘り崩されていったという事実だ。
 「天皇の終焉」にあたって行われた「重い殯の行事」も、葬儀や即位にかかわる行事も、新たにつくられた「伝統」の一部に過ぎない。日本国憲法体制のもとにあって、「皇室のしきたり」なるものにより「社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶこと」など、そもそもあってはならないことなのだ。

 こうした発言が、老齢化して健康を損なっている天皇に対する「国民」の「情動」を喚起させる形でなされていることは、この問題のきわめて大きな危うさを示すものでもある。
 いままた、天皇の意向について「国民的」討論をという言論が、政府とその意をくむメディアにより組織され始めている。こうした構造は、天皇制を「内面化」させようとするものであり、かつての「国体」意識を再構成させ、これを「護持」させようというものだ。
 私たちは、これらの総体を、強く批判する。