今年も、安倍政権とアキヒト天皇制を問う!
昨年末の12月28日、
日韓両政府はソウルで開催された外相会談において、日本軍「
慰安婦」問題の「最終的かつ不可逆的な解決」で合意した。
被害当事者や日本軍「慰安婦」
問題に取り組んできた人びとの粘り強い運動が、
日韓両政府を追い込んでいたことは明らかである。しかし、
当事者や支援者が鋭く指摘するように、それは、
米国の圧力のもとで日韓政府がおこなった、
被害者不在の政治的妥協に他ならなかった。安倍政権は、
このことをもってすでに「慰安婦問題」は解決、
解消したかのようにふるまっている。そのうえで「軍の関与」や「
日本政府は責任を痛感している」が、
それは法的責任を認めたものではない、とか、
ソウルの日本大使館前の「少女像」(平和の碑)の撤去が、元「
慰安婦」を支援する財団への10億円支出の前提条件だとか、
居直った言説を繰り返している。
日本はここまで譲歩したのであり、今後「慰安婦」
問題を蒸し返すことは許さないという、
逆転した居丈高な姿勢である。
反天連でもこのことを論議したが、「慰安婦」
問題そのものをなきものにしようとしてきた安倍政権が、
口先だけであっても「軍の関与」「責任を痛感」
と言わざるを得なかったのは「靖国参拝の断念」や「安倍談話」
に続く、ある種の「蹉跌」をも意味しているのではないか、
それをどう考えるべきかという話になった。
安倍個人の政治的資質が、大東亜戦争=解放戦争史観、「
自主憲法制定」など、伝統的保守、
右翼天皇主義的なそれであることは明らかだ。昨年10月に発足した第三次安倍改造内閣は、安倍を含む20
人の閣僚のうち、公明党の閣僚を除く全員が、「
日本会議国会議員懇談会」「神道政治連盟国会議員懇談会」「
みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」
の三つの議員連盟のいずれかに所属してきた「靖国」
派の政治家で占められている(安倍ほか八人はそのすべてに所属)
。しかし、
そうした右翼政治が貫徹できているとは決していえない。
もちろんそこには、
右翼主義を全面化することへのアメリカの強い警戒と批判が作用し
ている。しかし、80年代以降の日本の政治過程が、
安倍政権に与えている歴史的規定性というものを考える必要がある
。
中野晃一は、この30年ほどの政治状況の右傾化を、「
新自由主義」と「国家主義」が、
矛盾しつつも補完しあって成立する「新右派連合」
の推移から読み解いている(『右傾化する日本政治』岩波新書)。
とくに2000年以降、「新右派連合」
が政治過程で勝利を収めるなかで、それ自体の変容を生み出した。
歴史修正主義的な国家主義が力を持ち、
行政府への権力集中が進んだ。「政治の自由化」から「
反自由の政治」への転換である。
似たような議論は、すでに渡辺治などによってもなされていた(『
〈大国〉への執念』大月書店)。そこでは安倍政権は「
グローバル競争大国派と復古的大国への郷愁の狭間で股割き状態に
陥っている」矛盾する二つの顔を持ちながら、
戦後保守支配層の成し遂げられなかった要求を果たす政権として期
待され、登場したものであることが指摘されている。
これらの分析は、
私たちが目の前にしている安倍政権の暴走ぶりを、
たんに安倍個人の政治的な資質としてのみ理解すべきではないこと
を教えている。同時に、折に触れて突出する安倍の国家主義的・
復古主義的な姿勢は、全体としての政治・言論状況を「右」
に牽引し続けていることは軽視できない。
こうした議論を参考にしつつ私たちが考えるべきことは、
もちろんそうした安倍政権と象徴天皇制との関係である。
国家の機関である天皇制も当然、
こうした政治過程に規定され動いている。
私たちがこの間直面してきたのは、暴走する安倍「壊憲」
政権に対して、「護憲・リベラル」なアキヒト天皇制を対置し、
後者を賛美し期待すらする言説の広がりであった。だが、
仮に天皇個人が安倍個人を嫌っていたとしても、
時の政権と天皇制とは、
そもそも対立するようなものとしてはありえない。
憲法上の地位と歴史的にもつその権威をもって、
ときの政権に正統性を与え権威づける役割が天皇の政治上の地位で
ある。
天皇夫婦はこの1月26日から五日間の日程でフィリピンを訪問す
る。海外で最大の日本人の死者を出し、現地住民100
万人以上を殺害したこの地で「慰霊」するというが、
いうまでもなくフィリピンは、対中国戦略上重要な国でもある。
そのフィリピンへのこの時期の「親善訪問」
が持つ政治的な意味はあまりにも明らかだろう。
そういった意味において、
日本共産党が今回の国会開会式に出席し、
礼までしてみせたことは問題である。本号の「動物談義」
でこのテーマで話しているのでこれ以上はふれないが、
天皇制が現実の政治に果たしている役割をきわめて狭く解釈するこ
とで過小評価するばかりか、
護憲を言いつつ国事行為にない天皇儀礼の容認=
憲法上の逸脱行為さえも現実に容認した愚行だ。
現在の運動状況において、
小さくない影響力を持つ共産党だからこそ、その行為は、
運動における天皇制論議をいっそう解体させてしまうことにしかな
らない。
昨年に引き続き私たちは、
安倍戦争国家と象徴天皇制とを問う行動を続けていきたい。
今年もさまざまなご協力を、よろしくお願いします。
(北野誉)