2014/11/16

カーニバル20号[主張]

   「争いや苦しみの芽を摘む」ってなんじゃい


 一一月七日、反対する多くの市民の声を前に、鹿児島県議会は川内原発の再稼働を求める陳情を賛成多数で採択した。傍聴報告、いち早く出されたFoE Japanやフクロウの会の緊急声明など、すでにインターネット上に流れている。無惨な議会の様子や反対派の声など、ここでは割愛するしかないが、この国の政治家たちの、福島原発事故への無反省と、どれだけの人が苦しもうが一部の人間の利益を優先するという確たる方針だけはよく見て取れる。人を人と思わず、自然をなめきった政財界が結託した阿呆な政策結果に泣かされるのは、やはり人であり自然である。県議会の、政府を信じるというパフォーマンスは、痛すぎる。

 そういった政治家と企業の好き勝手を許すわけにはいかないと、現地と全国の反対運動は、このひどい事態の中でも諦めずに果敢に闘われている。反天連にも老体にむち打ち関わり続けるメンバーがいる。私個人のできることなどないに等しいが、それでも繋がっていくしかないと今さらながら思うのだった。ここで再稼働なればあとは芋づる式、とのひそひそ声も聞こえる。そうはならんぞ、という声とともに歩くしかない。

 この川内原発の件でも、いずれはアキヒト・ミチコがなんらかの言葉を発するような事態がでてくるであろうか。ここ数年の彼らのパフォーマンスは目に余りすぎるが、一〇月二〇日のミチコの誕生日前、記者会質問に答えた恒例のミチコ文書にも、無視できない発言が紛れていた。例年、よく驚きの一発が入っていたりするが、今回もかなりすごい。

 「平和の恩恵に与っている私たち皆が、絶えず平和を志向し、国内外を問わず、争いや苦しみの芽となるものを摘み続ける努力を積み重ねていくことが大切ではないかと考えています」。

 具体的な例など何もない。そういう意味ではさまざまにシチュエーションと立場性を想定して読める一文である。これをまた都合よく解釈して読む人も出てくるのであろうか。ただ、「争いや苦しみの芽となるものを摘み続ける努力」とは、どのようにも解釈できる、といったはなしではない。超権力・最高権威者に一番近いものの発言としては、ぞっとするほど具体的すぎはしないか。

 この発言は、今回の川内原発再稼動をめぐる攻防にも、沖縄の辺野古や高江で闘われている米軍基地建設問題をめぐる攻防にも、靖国をめぐる攻防、国会で進められている集団的自衛権や秘密法の問題、「慰安婦」問題をめぐるNHKや政府が代表する見解と国内外の謝罪と補償を求める声、あるいは武器輸出問題、カジノ容認問題、はたまたオリンピック、TPP、消費税、派遣法、等々……、私たちがすぐに思い起こすすべての課題に関連させて読むことができる。

 「平和」を願い祈る天皇・皇后だから、まさか極右の安倍や戦争国家米国の側にではなく、民衆の側に立った発言に違いない、というのが大方の読み手の「思い」となるのだろうか。そう読めば、摘みとられるのは安倍政権ということになるのだろう。そうでなければ、我々が摘み取られるのか? そこには具体性を押し隠した気持ちの悪い政治のありようが見え隠れするのだ。

 天皇一族の発言をどのように解釈しようと、それは天皇制の政治の土俵に登ることにしかならない。それを望まない私たちにできることは、そういった天皇一族の政治的発言を許さない、という立場をとるだけだ。発言したければ、権力者の上に立つ最高権威者の地位から降りるべし。当たり前のことだ。また、時の権力者たちが超権力・最高権威を政治的に使い、そのためにこそ最高権威者として天皇を護る(雇う)という政治システムが天皇制であることを忘れてはなるまい。しかし、そんなことも理解させないのが「慈愛」の天皇制であり、権威の発言にこそ意味を見出す意識が発想が天皇制を支える。しかも、それは公的な暴力で支えられているのが現実で、天皇制批判を許さない権力と日本のマジョリティ社会がある。およそ民主主義とはかけ離れた社会なのだ。

 反天連では、このようなアキヒト・ミチコ天皇制を批判し抜くための、Xデーを射程に入れた議論を開始していきたいと考えている。天皇一族の護憲発言の真相、それを一歩踏み外したかにも見える今回のミチコ発言、対する人々のさまざまな反応の分析等々、議論することは多い。これまでも同じ課題をずっと議論してきた反天連であるが、もう少し議論の切り口・視点を増やしていく努力、発想の転換、等々を模索したいと考えている。その手始めとして12・23集会も準備を始めている。ぜひとも、お集まりください。詳細はインフォメーション・チラシを!
(桜井大子)