戦争をする国家による「追悼」を許すな!
この原稿を書いている時点で、国会会期末まであと二週間。「安全保障法制整備」のための閣議決定に「集団的自衛権の行使容認」を明記しようとする安倍政権は、主に公明党との間で文言の調整をすすめている。報道によれば、当初、「行使容認に慎重な公明党」に配慮し、必要最小限度の「自衛権」との表記にとどめ、自衛権が「集団的」か「個別的」かで区別せずに閣議決定することにしていたが、安倍の強い意向で方針を転換し、「集団的自衛権」を明記する意向をあらためて示したという。さらに公明党との協議の過程で、政府は、事実上、戦場での積極的な戦闘行為以外のすべてに自衛隊が関与しうる「PKOなどの国際協力を念頭にした自衛隊の後方支援活動の範囲を見直す」案さえ出している。
前号の主張にもあるように、こうした姿勢は、五月一五日の安倍の記者会見で、はっきりと打ち出された。多くの人びとによって指摘されているように、それはまさにクーデター的なものである。国会での審議すら経ずに、ただ時の内閣が合憲と解釈すれば、いとも簡単に解釈変更ができるという。本来、内閣には憲法を遵守する義務はあっても、それを解釈する権利などありえない。まさにこうした行政府の恣意を許さないために存在するのが憲法であるはずだ。
安倍は、閣議決定の時期について「年末までに日米防衛協力の指針(ガイドライン)の見直しを完了する。それに間に合うようにまとまることが理想的」と述べている。日米同盟の一層の強化と、対中国シフトとしての「離島防衛」=沖縄前線基地化をすすめる安倍政権にとって、自衛隊が「国民の生存の確保」や「平和主義」の名のもとに、「日本が攻撃を受けていない場合」においても海外で軍事行動がとれること、すなわち戦争をすることがいつでもどこでも可能であるとすることは、必要不可欠のことである。
あらゆる分野で、いわゆる「戦後民主主義」において、たとえ微弱でも存在した「戦後的価値」が一掃されようとしている。「安倍政権打倒!」が、決して空疎なスローガンではありえない状況であると強く感じる。
文字通りの戦争国家の道をひた走る安倍政権にとって、戦争の準備は、国家による戦死者の「追悼」の準備をも要請せざるをえない。戦争国家の戦争行為によって、自国の死者が生み出される可能性は、きわめて大きなものとなっている。私たち反天皇制運動の視角からする安倍政権・戦争準備批判の大きな柱として、「靖国」と国家による「慰霊・追悼」に反対する課題が、あらためて前面に据えられていかなくてはならないのだ。
私たちはいま、私たちも参加する実行委員会として、例年同様に8・15反「靖国」行動の準備に入っている。死者を、国家的に「追悼」する中心施設は、安倍にとって靖国神社であるかもしれないが、アジア・太平洋戦争をはじめとする戦争と植民地支配の総体を肯定する靖国神社がそのような位置を占めるのは、少なくとも現在の姿のままでは不可能であろう。しかし、靖国参拝にみられるその賛美が、「国家に命を捧げる」ことの美化を意味することは明らかだ。
私たちの8・15行動(デモ)は、大量の右翼と警察に囲まれ、その両者による暴力と介入に見舞われる中を進むものとなってしまっている。デモ本来の街頭における自由なアピール行為という面からいえば、実に不本意なことでもあるが、逆説的にいえば、この日現出するそうした空間が、天皇制や靖国をめぐるこの国と社会の現実、すなわち「少数者」に対する線引きと暴力的排除の本音を、可視化しているのだ。だからこそ私たちも、こうした行動を続けていかなくてはならないが、それにとどまらず、多くの人たちと、この問題を討議していく場を意識的に作っていきたい。
実行委としては、七月二一日に前段集会を持つことにしているが(詳細次号)、六月二六日の天皇沖縄訪問(対馬丸記念館視察など)についても、当日夜、この実行委員会として討論集会を持つことにしている。字数がないので、内容的なことについて詳しく展開することはできないが、対馬丸事件の死者もまた、援護法行政とのからみで靖国に合祀されている存在である。すなわち、天皇制国家による死者、沖縄戦の被害者が、国家による謝罪・補償ではなく「国に命を捧げた」として顕彰されること、そして過去と現在の戦争国家をつなぐ場面に、死者を介在させて天皇が登場し、国家的に包摂していくという構図がここにもある。ぜひ、こちらの集会へも参加を!
(北野誉)